2012年6月4日

「夢の時間」-dreamtime

Filed under: blog — Nishitani @ 11:25 PM

 6月5日(2012年)に『dreamtime』(PHP研究所)が出ます。
今まで僕の書いた本の中ではまちがいなくbest1です。
執筆にかけた時間も以前の本にかけた時間のおよそ3倍以上で、推敲に推敲を重ねました。
今まで僕に関わってくれた方々には是非読んでほしい本です。もちろんそうでない人にも。

3.11以降おそらくは全ての日本人が何らかの意味で生き方の地殻変動を経験せざるを得ない中で、僕なりの1つの答えとまではいかないにしても、1つの意思表明がこの本の中にあります。

 さて、視聴ならぬ、試読ということで冒頭の部分を引用するので是非読んでみて下さい。
本全体のテーマが響いていると思います。

 「ローマの町を歩いていると、よく見かける光景がある。
 
古代から中世、そして近代のルネサンスへと至る様々な遺跡や絵画、建築が点在する中で、道端で物乞いをする人々がいる。
まだ幼い子供を肩車して哀れな表情を装い小銭をせびるジプシー、路上に蹲るようにして座り込み、寄付を求める老婆、両肘から先を失った男性は、それを隠そうともせず、四つん這いになってその両腕をダラダラさせながら、盛んに何かをくれという表情でこちらを見ている。
 

町のあちこちで見かける古代ローマの遺跡が二千年近くたった今でも、その存在をしっかりと主張している一方で、それ以上の存在感を持って人間の意識を引きつける、そうした人々の圧倒的な吸引力。こちらは、何か見てはいけないものを見てしまった感覚に陥り、一瞬どうしていいか戸惑うが、あえて無視してそこを行き過ぎる。

 人間の弱さは力だと思う。その力は僕らの情念の深い部分に届いて、僕らを揺り動かそうとする。
ただ、その弱さにも二種類ある。弱さに居直り、その弱さを売りにして生きていこうとする姿勢と、自らの弱さを認めつつも、自分にはそこから何ができるかと弱さからの自立を求める姿勢の二つだ。前者は言わば、負の弱さ、弱さに溺れる弱さであり、後者は弱さの中にある強さ、弱さを知ったがゆえの強さだと言えると思う。
 

 弱さというのは、それが肉体的なものであれ、精神的なものであれ、それが存在するということではすべての人間に共通する。その意味で、僕の個人的な考えでは、弱さは必ずしもそれを克服する必要はないと思う。もちろん、ある程度改善できる弱さもあると思うが、僕の言う弱さとは、もう少し根本的なもので、たとえば自分の肉体のある部分にコンプレックスを持っているとか、精神的にトラウマがあるといった、自分では変えようがない性質のもののことだ。

 そうした弱さはまずそれを認めたうえで、自分がそこから何ができるかを考えた方がいい。たとえば、僕のよく行くジムに、右手の肘から先のない男性がよく来て、マシンで筋トレをやっている。彼は坦々と左手だけを鍛え、足や腹筋のトレーニングを続けている。

 僕の好きなジャズミュージシャンにチェット・ベイカーというトランペッターがいる。彼は若い頃、甘いマスクと中性的なボーカルで、男性ばかりか女性にもとても人気があり、マイルスを凌ぐほどの勢いがあったが、麻薬に溺れてしまい、金銭上のトラブルからジャンキーに歯をすべて抜かれてしまう。トランペッターにとって歯がないということは致命的である。

 しかし、彼はそこから再起する。

 ガソリンスタンドでバイトをして、生活費を稼がざるを得ないところまで、かっての栄光から落ちてしまい、以前の甘いマスクはもう見る影もないほど老いぼれてしまったチェット。それでも、彼の吹くバラードには、若い頃の彼以上に青春のリリシズムが溢れている。・・・・・」

 テーマは弱さのもつ力について。自分の弱さを弱さとして認識するところから何がはじまっていくか。
本の中で述べているように弱さには二つあって、だれしもそれを共存させていると思います。つまり、弱さに居直る負の弱さと、弱さをバネにして自立の方へ向かうほんとうの強さの根源をなすであろう弱さ。この二つの弱さは、すべての人間の中で絶えずせめぎ合っていて、その出方次第でその人の真価も決まるんじゃないかと言ってもいいほどです。

その出方の事例を僕の個人的経験の変貌という形で各4章それぞれ8~9のエッセイで構成しています。是非、きみの個人的経験をそれに重ねるようにして読んでみて下さい。
そこから生まれる和音あるいは不協和音は全体としてきっと、きみの世界をより深く豊かにしてくれるはずです。

 また、全体で35のエッセイのそれぞれには僕が英語教師としての仕事に関わる中で、僕の心に深く残った英語の単語や文からの思考の広がりが書かれていて、それが前出のエッセイとコラボして響き合っています。

 例えばその1つ。この本のタイトルになっているdreamtimeについて。

 「dreamtime―オーストラリアの先住民族、アボリジニの言い伝えにある神話的な時間のことだ。
人間はこの世界に生まれ、生活し、旅をし、その痕跡を何らかの形に顕し、死んでいく。そういった時計の時間に左右されない、自分らしい生き方をする時間が「dreamtime」だ。

 ミヒャエル・エンデの童話『モモ』のサブタイトルは、「時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」だが、現代人は、かって以上に収入だけのための仕事や生活に追い立てられ、自分らしい時間の流れる生き方を奪われてしまっている。モモはどこかに出かけたまま戻っては来ない。

 そんなとき、アイヌやアメリカンネイティブやアボリジニたち先住民族の生き方が単なるノスタルジー以上の切実さで僕らの生き方にその存在感を主張する。この世界の中で自分らしい生活をし、心の赴くまま自由に旅をし、その中で深く心に残った痕跡を記録にとどめていくこと。僕らの生きる「夢の時間(ドリームタイム)」がそこにある。

 しかし、それは「夢」の時間でありつつ、全ての人間が生きて経験せざるをえない「現実」の時間でもあるのだ。そうした時間をお互いが共有し、引き継ぎながら作られていくものこそ「文化」だと僕は思う。」

 
 このdreamtimeということばは、この何年かで僕が最も心をひかれたkey-wordの一つで、まさにこのことば通り、僕が僕の人生を生き、旅し、考えたことの痕跡がこの本の中に残されていると思います。
つまり、僕だけの「夢の時間」。そして、それはこうした書籍という形で限りなく広がっていく可能性をも秘めているものです。

 最後に、企画、発案、構成、編集等全てにわたって、僕とここまでずっと一緒にやってきてくれたPHPの池口君なしにはこの本は絶対に存在し得なかったという事を付け加えておきたいと思います。

                                                            西谷 6,4,2012