2010年5月24日

I Remember Kiyoshiro

Filed under: blog — Nishitani @ 10:48 PM

 キヨシローって知ってますか?知ってるよね。去年亡くなった、rock musicianのキヨシローです。このあいだ、渋谷のデパートで写真展があって行って来たんだけど、生きている時のライブパフォーマンスのshotの数々が実に生き生きと写し出されていました。まさに写真というのは光を一枚の紙に固定する形で一瞬の輝きを永遠化するパワーがあるね。(たぶん、僕らが好きな人の写真を肌身離さず持っていたいという気持ちは、おそらく、その人の体から出た光が写真に物理的に固定化されているからだと思うのですが・・・)

 僕は自分の子供が昔、上原小学校に通っていてキヨシローの子供さんも何年か上の学年にいた縁で、当時やっていた旺文社の雑誌(アルシェという受験生向けの雑誌の連載を書いたり、有名人との対談をやっていた)に登場してもらったことがあるんです。渋谷の桜ケ丘の事務所で初めて会ったキヨシローはとてもシャイだった。彼はポケットから取り出したシガレットをまわりの空気を感じて、そっと自分のひざの上に置いた。つまり、人に思いやりのある本当にシャイな人だった。その時の彼との対談で1つ心に残っているのは、彼が受験生に向けてボソボソと話したことば。「大事なことは何かを好きだって言えること。人生で本当のことって『好き』なことを追いかけるってことだよ」とキヨシローは言い切ってくれた。考えてみれば、キヨシローほど好きなことを、全身全霊で追っかけたやつもいないだろう。だけど、間違わないでほしい。日本社会で好きなことを追っかける位大変なことはないのです。キヨシローは何度も何度もくりかえしくりかえしバッシングを受け、つぶれそうになりながら、その度ごとによりパワーアップしていつでも復活してきた。まさにRockだ!Kingだ!Yeah!

 彼のライブパフォーマンスで心に残っているのは、まだ彼がデビューしてまもない頃の、日本青年館で行ったものだ。客は20~30人位だったと思う。だけど、その時の彼は、武道館で何万人かの客相手にやる時と全くかわらず、あるいはそれ以上にエネルギッシュだった。ファンも超ノリノリでサイコー!だった。たとえ客が何人でも自分の好きなことに必死で打ち込む彼の姿は僕の心に今も、これからも永遠に焼きついている。彼は死んでも彼のスピリットは残る。彼が歌に託した愛と夢はビシビシ世界中に響きわたっています。

2010年5月23日

神話的な知の方へ

Filed under: blog — Nishitani @ 9:26 PM

 「・・・最後の蝶が一匹、谷間の上の方をめざして飛んでゆく。何日か前にぼくらがもぎ取ったトウモロコシの茎のてっぺんにふっととまった。羽を開いたり閉じたりすることもなく、じっととまって待っている。食べものを貯めようなんて気はない。まもなく死んでしまうのだ。彼は自分が死ぬことを知っている。こいつは並みの人間よりずっと賢い、と祖父が言った。蝶はせまってくる死にいささかもうろたえない。自分が生まれてきた目的ははたし終わった。そして今やただひとつの目的は死ぬことにある。だから、トウモロコシの茎の上で、太陽の最後のぬくもりを浴びながらまっているのだ。」
                                   『The Education of Little Tree』(フォレスト・カーター著)

 生きものの死をとらえたとても美しい描写です。この蝶の穏やかな死のイメージは、この蝶が「自分が生まれてきた目的ははたし終わった」と感じるところから来るわけだが、では、どれだけ多くの人間が「自分が生まれてきた目的ははたし終わった」と感じて死ぬことができるだろうか。

 動物や植物の生と比べて、人間の生活はあまりにも複雑になってしまったために、日々の生活を生きることに100%の満足感をもち、そして死んでいくということが多くの人間にとって、とても困難になっている時代のように思える。だれであっても、その人に固有の生き方というのは必ず存在するはずで、それをシンプルに太く生きることが人間にとっていちばん幸せであるはずなのに、それができないでうろたえている、あるいはその答えを自分から探しだすことができない人間がますます増えている。

 何か答えの出ない問いの方へ向かって走り出した気がするが、少なくても僕たちは日常の情報的な知識から少し離れて、自然の営みをじっくり観察してみる、あるいは、音楽や文学、神話的な知恵の中で自分に響いてくるものとだけゆっくり対話してみる必要はあると思う。そうした感性を、日常の忙しい中でたえず中心軸に据えながら生活していければ、もう少し生の充実感を感じることができるのではなだろうか。

 オーストラリア原住民であるアボリジニの〝dream″ということばに含まれる意味はそのことを示唆している。
彼らのいう〝dream″とは「生活し、旅をすること」。生活するということは、限りなく豊かなこの世界や宇宙、そして自然の中を、日々新しいものとの出会いを求めて、あるいは、自分の内部のまだ見ぬ自分との出会いを求めて、見慣れたようで実は見慣れぬ森の中を一歩一歩手探りで旅をしていくことなのだ。

2010年5月13日

夢と目標

Filed under: blog — Nishitani @ 12:31 AM

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
                     『農民芸術概論網要』 宮沢賢治

 正直、このことばを高校生のときはじめて知ったとき、自分はこのことばに何か嫌な響きを感じたと思う。
人間ここまでストイックに生きられるはずはない。だったら、そこまで言うのは偽善じゃないか。

 それから長い人生の時間が流れてこのことばは僕の人生にとって切実な響きを持ちはじめているように思う。
ちょうど初対面で嫌な印象を持った人間が、そのあと、その実質がだんだんわかってくるにつれて、自分にとって
唯一無二の親友になってくるように。

 ところで、夢は大きければ大きい程いいと思う。もちろん上述の宮沢賢治の夢はでかい。それよりでかい夢を持ってる奴なんていないだろう。ただし、夢が大きければいいといっても具体的な目標を確実に設定し、乗り越えていくという条件付きでの話だ。僕たちは何か大きなことを達成しようと思うとき、それに使える時間をうまく分割しながら、その時々に応じた具体的な目標設定を行う。そして、その段階的な目標の一つ一つを確実にこなしたことで得た「自信のカケラ」をエネルギー源に次の目標へと向かい、そのくりかえしの中で「自信のカケラ」を寄せ集め、大きな自信を作り、人生の壁を打破しようと頑張る(=breakthrough)。

 たぶん、僕にとって宮沢賢治の上述のことばが、嫌な響きから自分にとって切実な響きへと転調していったのは、自分の人生における一つ一つの目標を確実にクリアーしていったプロセスの中での変化だったと思う。仮に、自分がどんなに幸せになったとしても、例えば、となりのホームレスの人々が寒さでふるえていたり、アフリカの子供が飢えで苦しんでいるのをTVで見るなら、自分はほんとうに幸せだとは言えないのではないか。「自分の幸せ」というエゴを満たすためには、より多くの人々の幸せを志向せざるを得ないのではないか?

 そんな時、ココ・シャネルの言葉が僕を後押しする。

 「人間、どのように生きたかはさほど重要ではないのです。 
 大切なのは、生きている間にどんな夢を見ていたか、ということ。
 なぜなら、夢はその人の死んだ後も 生きるのですから。」

  ここからの話はむちゃ振りだが、W杯日本代表監督の岡田さん(個人的にはとても好きな監督だが)に飛ぶ。彼は目標の立て方がいささか走りすぎだと思う。「我々の目標はベスト4」だという前に、6月14日のカメルーン戦の引き分け以上を具体的目標として絶対実現すべきである。それが全てだし、すべてはそこからだ。何としても前回のW杯の二の舞だけはしてほしくない。これは僕はもちろん、すべての日本のサッカーファンの共通の願いだろう。
まずの目標はカメルーン戦、次は予選リーグ突破、次はベスト8、そしてベスト4・・・。

 ちなみに、僕のサッカー日本代表に求める夢はワールドカップ優勝だ。僕は日本代表がワールドカップで優勝
できるまでは絶対死ねないと思っている。 
                                                             -大宮にて。

2010年5月10日

ごちゃごちゃ口出ししない

Filed under: blog — Nishitani @ 7:45 AM

 「・・・夕食はのどを通らなかった。好物の豆と、トウモロコシパンだったが。食べながら、祖父がぼくを見つめて
言った。「なあ。リトル・トリー。おまえの好きなようにやらせてみる。それしかお前に教える方法はねえ。
もしも子牛を買うのをわしがやめさせてたら、おまえはいつまでもそのことをくやしがったはずじゃ。逆に、買えと
すすめてたら、子牛が死んだのをわしのせいにしたじゃろう。おまえは自分でさとっていくしかないんじゃよ。」
                                  『The Education of Little Tree』(フォレスト・カーター著)

 少年(リトル・トリー)はさんざん悩んだあげく、自分が大切に貯めていたなけなしの金50セントで子牛を買う。
子牛が元気ならとても買い得だったのだが、子牛はその後すぐに病気で死んでしまう。つまり、まんまとだまされたわけだ。祖父はおそらく、その結果が予想できたのだが、あえて買うのをやめとけなどという指示を少年にしなかった。その後の祖父のことばがこれ。
 ここからのlesson【教訓】は明らかだろう。つまり、人間が成長するのは自分の決断でやったことを通した場合のみであるということだ。
 
 僕にも同じような経験がある。あまり他人にはいいたくないことだが、大学に入りたての頃、東京の荻窪で道を歩いてたら、突然、車の中の人に呼び止められて、デパートの品(ライター)だけど余りが出て、安く売るから買わないかとむりやりさそわれ、つい買ってしまったが、実は・・・というような経験だ。情け無いことだけど、しかし、その時のことはしっかり覚えていて、今でも表面上の旨い話には決して安易に乗らないようにしようと心がけている。みなさんにも同様の経験はあるでしょう。情け無いけど、心にしっかり残るという経験。これはとても大切な宝物になる。

 僕は教育の究極の理想は、生徒に教えることではなく、生徒に好きなようにやらせること、それを落ち着いて見守ってあげること、そして、必要であれば、結果についてともに話し合うことだと思っている。それでもお前は教師かってお叱りを受けそうだが、learn【学び身につける】ということばの本質はやはり、まず、自分の責任で決断し始めること、そして、たとえ失敗しても、その失敗を通して学び身につけていくこと、これ以外にはないと思う。
                          
 ということで、本日は情け無い経験だって時にはいいものだよ、ということでした。

2010年5月3日

2010年の夏期講習へむけて・・・

Filed under: blog — Nishitani @ 11:33 PM

もう今年もその1/3が終わったね。今年志望校にうまく入れなかった人にとって、2010年の1月~4月の4か月は、もう本当にめまぐるしく大変な4か月だったでしょう。人生の過酷な側面、また、その時垣間見える人間の意外なやさしさ、その他色んなことを味わった4か月だったと思う。だから、せめて今年の中間の1/3(5月~8月)は
右肩上がりの着実な上昇期にしたいものだね。
そのためにも早く勉強の土台を作り、自分のペースを把み、勉強を軌道に乗せてください。
言うなれば5月~6月は受験の土台作り、7月~8月の夏期は受験の基礎学力の確立期です。
このHPのレクチャーのパートに僕の夏期講習の講座説明をupしたので是非見てください。
そして、この5月~8月を充実させ、基礎学力を確立させれば、まず偏差値10upは間違いないと思うし、それが後半の1/3(9月~12月)をうまく乗り切る原動力・貯金になってくれます。だから、この4か月の勉強の方向性をしっかり見極め、そして作り、偏差値10up(8/31まで)の軌道をバク進しよう!
もう、bullet train(新幹線)は新横浜をすぎたあたりだよ。

2010年5月1日

四月の雨

Filed under: blog — Nishitani @ 10:04 AM

 「四月の雨は心地よく、気持ちを昂ぶらせるが、同時に悲しみを誘いもする。祖父はいつもこの時期、
綯い交ぜの感情を味わうという。なにか新しいものが生まれつつあるから気持ちが昂ぶる。だが、そこに
とどまっていることはできない。すべては束の間に移ろいゆく。だから悲しいのだ。」
                               『The Education of Little Tree』(フォレスト・カーター著)

 たとえば四月の雨が僕たちの心にふともたらす感慨―心の昂ぶりや悲しみ―は僕たちの心と自然の存在
とのある種の共感(コレスポンダンス)を示している。
古来こうした感性は日本人にとって固有のものであったと思う。その共感がなくなったとは言わないまでも、
ずいぶん少なくなったような気がする。ただ、ものごとの始まりと終わりにまつわるこうした感慨は、人が年を
重ねるにつれて、つまり、そうした経験の回数が増えていくにつれ、より実感されていくものだろう。
もちろん、そうした経験の深まりに対し、ある意味マヒしてしまい鈍感になるというのも、生きている上である
意味1つの人間的な知恵かもしれないが・・・

 そういえば、宮沢賢治が、妹トシが亡くなった後書いた詩「青森挽歌」の中で次のように言っているのを思い出す。

感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもってばかりゐてはいけない
ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
あらたにどんなからだを得
どんな感官をかんじただらう
なんべんこれをかんがへたことか

 年を重ねるにつれ感性がより研ぎ澄まされていくか、あるいは鈍くなるか、この格差は広がるばかりだろう。
これは是非の問題ではないが、深い悲しみはより深い喜びを感じるための条件であることは古来ギリシアの
昔から変わらない人間性の真実であると思う。